<上野>

2.アーカイブス

上野精養軒カフェラン ランドーレ

2011年2月19日(土) 今日の昼飯 は・・・

上野 「 上野精養軒カフェラン ランドーレ 」

元祖ハヤシライス(プチサラダ付) ¥1,360

『本物のハヤシはどれだ?シリーズ』の第4弾。発祥説の③のお店です。※参 日本橋101120

③洋食屋の店長の「林」が作ったビーフシチュー(ハッシュドビーフ)とご飯を混ぜた賄い料理が、客による口渡りから全国区になったと いう説。

この「上野精養軒」が正にその洋食屋です。店長ではなく、料理人の「林さん」だったようなのです。

この店は、そんな説明文からイメージしてしまう、「町の洋食屋さん」ではありません。明治の初めに三条実美や岩倉具視の援助により創業し、日本の西洋料理をリードし育ててきた、歴史と威厳のある老舗洋食店なのです。夏目漱石や森鴎外の小説にも登場するそうです。(※小生、その方面はチョット?なので、タイトル名などは知りませんが)

今では、「ウェディング」と「バンケット」をメイン事業に、「レストラン」も充実しています。(※本店には、この「カフェラン ランドーレ」と本格的フランス料理店の「グリルフクシマ」があります。)

上野精養軒(うえのせいようけん)は、東京都台東区上野恩賜公園内にある老舗西洋料理店。株式会社精養軒によって運営されている。本店の ある上野公園内の博物館・美術館などに系列店を出店している。

<沿革>

1872年(明治5年) – 三条実美や岩倉具視の援助により、東京府築地に「西洋館ホテル」創業。

1873年(明治6年) – 西洋館ホテル、「精養軒ホテル」と改称。(築地精養軒)

1876年(明治9年) – 上野精養軒開業。

1918年(大正7年) – 株式会社精養軒を設立。

1949年(昭和24年) – 精養軒ホテルベーカリー部門が独立(→後の神田精養軒)

1963年(昭和38年)6月25日 – 株式公開。※Wikipedia

このようにお店の沿革を見てみると、明治の初めにはすでにホテル業を始めており、当然そこには西洋料理のレストランも併設していたことは明らかです。

日本の洋食の祖である「煉瓦亭」の創業が明治28年。それより20年以上も前のことです。もちろんこの「精養軒」は貴族階級のためだけのものであり、一般庶民には雲の上の存在であったに違いありません。

その点、「煉瓦亭」は一般大衆に向けてのお店であり、小生の言うところの『日本の洋食の原点は煉瓦亭にあり!』という大衆文化発祥論には少しも揺るぎがありません。

しかし、“ハヤシライスの発祥”という点では、レストランの料理人が『賄い料理として残ったハッシュドビーフをご飯にかけた』ことは、十分過ぎるほど考えられることですし、また現実にあったことだと思います。

とすると・・・「上野精養軒」の林さんが“ハヤシライスの祖”・・・??まあ、林さんかどうかは大変疑問に思うところですが、有力な説で あることに違いありません。

小生が入店したのが午前11:10。楽勝で座ることができましたが、それから10分、みるみるうちに席が埋まってしまい、玄関前には長蛇の 列。やはりかなりの人気です。

東京人の血液の中には、「ごちそうは上野精養軒」という“憧れDNA”が受け継がれているようです・・・

注文した“ハヤシライス”は、注文からかなりの時間をおいて、小生の前に登場です。

う・うまいッ!「マルゼンカフェ」のものが世の中で一番美味いと思っていましたが、然にあらず、この「上野精養軒」のものも甲乙つけが たいほどのコクと深い味わいです。ライスの量が極端に少ないのが、大食漢の小生には物足りませんが、味の方は絶品。

申し分ない“ハヤシライス”です。でも、帰りにサンクスでパンでも買って帰るか・・・

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「上野精養軒」は上野恩賜公園内にあります。折角なので、公園内を“プチ散歩”です。

右:上野動物園表門。明後日のパンダ再来で 盛り上がっています。

東京都台東区にある公園。通称上野公園。「上野の森」とも呼ばれ、武蔵野台地末端の舌状台地「上野台」に公園が位置することから、「上野 の山」とも呼ばれる。

総面積約53万m²。東京都建設局の管轄。公園内には博物館、動物園等、多くの文化施設が存在する。

江戸時代、三代将軍・徳川家光が江戸城の丑寅(北東)の方角、すなわち鬼門を封じるためにこの地に東叡山寛永寺を建てた。以来、寛永寺 は芝の増上寺と並ぶ将軍家の墓所として権勢を誇ったが、戊辰戦争では寛永寺に立て篭った旧幕府軍の彰義隊を新政府軍が包囲殲滅したため (上野戦争)、伽藍は焼失し、一帯は焼け野原と化した。

左:寛永寺の五重塔
右:幕末時の上野戦争で散った 「彰義隊」の墓所

1870年、医学校と病院予定地として上野の山を視察した蘭医ボードウィンが、公園として残すよう日本政府に働きかけ、その結果1873年 に日本初の公園に指定された。このことをもってボードウィンは、上野公園生みの親と称されている。※Wikipedia

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上野公園の象徴でもある「上野の西郷さん」

東京都台東区上野の上野公園に建っている西郷像は高村光雲の作(傍らの犬は後藤貞行作)、宮内省より500円を下賜され、さらに全国2万5千人余の有志の寄付金で建立された。

除幕式は西郷の死後21年を経た明治31年12月18日に行われた。正面から写した写真では頭部が大きく見えるが、これは像の足元から見上げた場合の遠近感で適正に見えるよう計算されているためで、実際の西郷の体つきがこうであった訳ではない。

以後「上野の西郷さん」と呼ばれて100年以上も国民に親しまれ、現在でも東京タワーや新宿の高層ビル街とならぶ東京の象徴的光景となっている。

西郷には信頼性のある写真が一枚も残っておらず、光雲は肖像画や弟の西郷従道の風貌を参考にした。公開の際に招かれた西郷夫人糸子は「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」と腰を抜かし、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」といった意の言葉(薩摩弁)を漏らし周囲の人に窘められたという。

上野の西郷像は糸子が批評しているような散歩している姿ではなく、愛犬をつれ、腰に藁の兎罠をはさんで兎狩りに出かける姿である。連れているのはお気に入りの薩摩犬であった雌犬の「ツン」であるが、銅像作成時は死んでいたため、海軍中将・仁礼景範の雄犬をモデルにして雄犬として作成された。※Wikipedia

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上野公園の銅像に対する糸子の発言については、「銅像の顔が本人に似ていないことを意味する」と解釈する説もあるが、昭和50年代に鹿児島県下で小学生に無料配布されていた西郷隆盛の伝記読本『西郷隆盛』では、亡夫は多くの人間の前に正装ではなく普段着で出るような礼儀をわきまえない人間ではないのにという文脈で解説している。

当時故人を顕彰する銅像の多くが正装で威厳に満ちたものだったのに対し、西郷の銅像は明治維新の元勲のものとしては、あまりに庶民的に過ぎるものである。一時は朝敵とされた西郷の名誉回復の場でもあった銅像除幕で、予想とあまりにかけ離れた服装の銅像に対する驚きと落胆の気持ちの反映であった。

当初は皇居内に建てる案もあった西郷像の建造当時、朝敵となったことによる反対意見が根強かったことは無視できない。※Wikipedia

この普段着の姿が、日本人の心の中に『西郷さんは庶民の味方』というイメージを育てたと言えるのだが・・・まあ、世の中にはそういったことが往々にしてあるものです。

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「これ以上落ちない」ということから「合格大仏」として シーズンには受験生の参拝客で賑わう。

現在の東京都台東区上野恩賜公園内に造立されていた大仏。像高約6メートルの釈迦如来坐像だった。 度重なる罹災により損壊し、現在では顔面部のみがレリーフとして保存されている。 所在地は上野精養軒に隣接する大仏山と呼ばれる丘の上。薬師仏を祀るパゴダ様式の祈願塔と志納所が併設されている。※Wikipedia

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左:寛永10年に造られた「大石鳥居」
右:本殿は改修工事中。見えるのは“描かれた絵”です。
左:唐門  右:50基ある「銅燈籠」

東京都台東区上野恩賜公園内にある神社。旧社格は府社。正式名称は東照宮であるが、他の東照宮との区別のために鎮座地名をつけて上野東照宮と呼ばれる。徳川家康(東照大権現)・徳川吉宗・徳川慶喜を祀る。※Wikipedia

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